「待っているのです 」

 田植えが終わり梅雨をむかえると、イネはもう少年期から青年期。
 4月に種まきをして、苗代で管理していた頃は、発芽したかな、2枚目の葉っぱは出てきたかな、暑くないかな、寒くないかな、水は足りているかな、病気にやられていないかな、と気をもむ日々を過ごします。
 本田への移動(田植え)という節目を越えると、イネは管理される段階から卒業です。自分で根を伸ばし、土をつかんで栄養分を吸収し、光合成によって株を縦にも横にも大きくしていきます。病気にもなりにくい生命力のあふれるステージに入るので、農夫があれこれと細かく世話を焼く必要はありません。弱々しかったイネが、小さいながらも自力でたくましく育っていくさまをみるにつけ、脇にいる人間に出来ることはそうないなー、と感じます。
 イネを人間に例えれば、ちょうど中学生から大学生あたりでしょうか?
 その年代の子供たちを育てる親や学校がそうであるように(反抗期でもある成長期に)積極的な働きかけは逆効果の面もあり、実際には「周囲の環境を整える」くらいしか出来ることはないように思います。
 植物と人間を同列に語るのはひょっとすると叱られるかもしれませんが、成長期にある生物に対しては、ただただ温かく見守るのが一番、そんな時期があるのではないでしょうか。「見守る」というのは、何か上からの目線で偉そうですので、むしろ「ただ待つ」という言葉のほうが、ふさわしいかもしれません。イネが一人前になるのを、ただ待っているのです。

 待ち時間。待ちくたびれた。待たされた。・・・「待つ」というのは否定的な意味を、たくさん含んでいます。
 タクシー乗り場の列で待つ。駅で人を待つ。病院の待合室で呼ばれるのを待つ。空港で搭乗のアナウンスを待つ。レストランで注文した料理が出てくるのを待つ。出したメールの返事がくるのを待つ。とにかく早くしてくれ、待つのはごめんだ、無駄な時間を過ごしたくない。何でもかんでも忙しい現代ですから「待つ」ということがますます難しくなって来ています。
 もちろん、気の短い人ばかりではなく、ちゃんと待てる人もいるでしょう。「人事を尽くして天命を待つ」を心がける達観した人もいるでしょうし、「甘い球が来るまで、じっと待つ」ホームラン王のような実力者もいるでしょう。
 しかし、私のような気の短い人にとって「待つ」ことは、なかなか大変です。イライラして気持ちがとげとげしくなるか、ウンザリして気持ちがめげるか、たいていどちらかです。
退屈して「スマホでゲーム」なんかをしている人も、きっと何かを待っているのでしょう。

 かつて、太宰治も「ああ、私はいったい何を待っているのでしょう。けれども、やっぱり誰かを待っているのです。」と、書きました。
 農業には「待つ」ことが付いて回ります。季節が巡るたびに待たねばなりません。どんなに農家が急いでも、年に2回、3回と収穫が出来るわけではありません。24時間操業のような工業のようなモノ作りは出来ないのです。
 同じように、味噌を仕込んでいる人も、ワインを寝かせている人も、カレーを煮込んでいる人も、時を急いてはなりません。おいしくなーれ、と祈りながら、時間をかけることです。待ったあとにいい結果がある、と信じなければなりません。
「待つ」ことを楽しめれば、素晴らしいですね。残念ながら、私はその境地にまだたどりつけていません。
 田んぼの畦から小さなイネを眺めては、イネから教えてもらうばかりです。
 雨の日にこそ、緑の葉っぱは上を向き、すくすくと成長していきます・・。



タニシがウロウロしている代掻き後の田んぼ

畦で見つけた何か、丸い泡で守られた虫の卵

田植え数日後に米ぬかを撒く。微生物を増やし、除草効果がある



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