「インプット・アウトプット」

 10年ほど前にインターネットや携帯電話が一般の人にもひろがりはじめた頃、ネット接続すれば田舎でも自宅で調べものが出来る、外国の新聞まで読めると感動したものでした。携帯さえ持ってでれば田んぼの真ん中にいてトラクターに乗ってても、電話注文を受けられる、業者に資材を発注できる・・・と便利な世の中にただ驚いたものでした。
 今ではそんなことは当たり前で、10年前の衝撃を話していると年寄り扱いされてもおかしくありませんね。世の中はすごいスピードで変わっていきます。
 ここ1〜2年は、ブログやMixiが市民権を得ました。ごく普通の人たちが、ごく普通の日常を書きつづって、インターネット上に日記を公開しています。それを友達同士で読む。または知らない者同士がお互いの日記を読む。不思議な感覚です。文豪の書いた日記でもないし、出版されたものでもありません。有名人や偉い人の気になる接見記録でもありません。文章もつたなければ、刺激的な日常でもない、ごくフツーのありふれた日記が、ネット上にあふれんばかりにたくさん公開されています。不思議だと思いませんか?
 そうはいいながら僕も、誰が読むわけでもない自分のメモ、ネット上に書き留めています。ネット上に公開するその意味は? ときかれると答えにつまってしまいそうですが、深くは考えず気楽にのんびりやっています。
 インプットとアウトプット。入力、出力。入ってくるものあれば出すものあり。
 インターネットに象徴されるように、現代社会は世界中の情報とつながっています。調べのつかないことのほうが少なくなっている気がします。それこそ10年前は、図書館にいったって調べのつかないことが山のようにありました。いまコンピュータの検索機能を使えば、言葉や数字であらわせるほとんどのものを知ることが出来るのではないかと錯覚するほどです。たいへんな変わりようです。
 これだけたくさんの情報に囲まれて暮らしていると、正しい情報、間違った情報がごちゃごちゃになりますし、だいいち今度は情報が多すぎて食傷気味という事態になります。情報が少なかった、情報に飢えていた頃には思いも寄らなかったことですが、あまりに多すぎてもううんざり、そんな気分になります。
 きっと入力が多すぎるんですね。小さな容器にどんなに詰め込んでも、こぼれ落ちるときはこぼれ落ちます。それにこんなに情報があふれている世界で、情報やデータを無理やり詰め込んでも意味がありません。必要なのは取り込むことではなくて、吐き出すことなのかもしれません。力いっぱい抱えることより、入れ物をなるべく空っぽにする努力のほうが健全なのかもしれません。
 入力量より出す技術。
 ひとむかし前は入力した量が「ひとつの富」でした。蓄積された知識。貯めこんだお金。たくわえた知識やお金は確かに「富の源泉」でした。農業でいえば集積された農地とか。そういう種類の「富」はとにかく集めまくる。集めすぎたらちょっと隠しておく、嫉妬されないように。知識やお金はたくさんあればあるほど、持っていないふりをしなければいけないものです。
 少し時代が変わってきたのか、貯めこんだ量よりも、コミュニケーションの技術というか伝達の仕方というか、いわゆるアウトプットのほうが重要視されているようです。ストックからフローへ。情報もストックするのではなくうまく流す。発信、配信、伝播、共有。うまく出して容器を空っぽにすると情報は枯渇するかと思いきや、そんなことはなく逆にまた新鮮な情報が流れ込んでくるようです。ブログもMixiも、つまらないことでいいからまずは出す練習なのかもしれません。
 僕自身は読書は大好きですが、文章を書く機会は多くはありません。こんな文章を書いたのもメッセージを発信する練習・・・まずは練習からです。
 練習につき合わして、ごめんなさい。 




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